あけまして おめでとう ございます。
昨年の荒尾リボンクラブのレオさんのブログに、「ありのままで」自分らしさとは・・・
とありました。レオさんらしい生真面目な文に心がうごきました。2015年の再考する機会
にしたいと思います。
「ありのままで」の意味は、
素の自分、飾らない自分と言うことだそうですが、
「自分らしく・・・」っていったい何?
レオさんに限らず、誰もが一度は感じるテーマでしょう。そして、自分らしく生きるという事
は、できそうでできないテーマです。リボンクラブでは「せめて7歳までは自分らしく生きて」
というエールを、子どもたちに送ってきたようにも思います。
では、「自分らしく・・」とはなんでしょう?
「もっとも自分らしく生きているのは、赤ちゃん?」と仮定して見ます。小林登教授によると
「赤ちゃんは生物学的存在としてうまれてくる」ということですから、赤ちゃんは「素の自分」
とも言えそうです。赤ちゃんと幼児の線引きは難しいですが、おおよそ1歳6ヶ月以降、あるもの
を別のモノに見立てるあそびができるようになると、赤ちゃん時代卒業です。
大まかにいうと言葉以前の人々、この赤ちゃんたちは、素に自分、飾らない自分ではないか?
ウィニコットによると「抗うつポジション」という関所が有るようです。そこでは「偽りの自己」
という言葉が使われていますので、必ずしも赤ちゃんは素の自分、飾らない自分とは言い切れない
かもしれませんが、私たちが知る限りでは「赤ちゃんはジブンらしく生きている」ように見えます。
「ジブンらしくってナ〜ニ?」、赤い、丸い、ツルツルしている、少し重い、という言葉を知ら
ない赤ちゃんにとって、「りんご」はどのように感じられるのでしょう?
少なくとも「ジブンとジブンでないもの」の区別がつくようになった1歳以降の赤ちゃんたちに
は、私たちが見るように、私たちが指先で感じるように、「りんご」が見えたり、感じられている
のではないかと思います。ただそれに「言葉が伴っていない」だけです。
目の前のりんごに対する「素の感じ」、これが「りんご」になるか?「アップル」になるかは、
赤ちゃんの言語環境に左右されていきます。
これらの「素の感じ」には、クオリアと言う言葉が使われています。クオリアは「さまざまな
感じ」の総称です。ツルツルしているという「感じ」は手のひらや指先で感じます。秋の空の透
き通るような青は目で感じます。ママの声は耳で感じます。おいしさの違いは舌で感じますし、
ウンチの匂いは鼻で感じます。
これらの「感じ」の総称がクオリアですが、面白い事には「クオリアは他者に教えることがで
きない」ということです。パーソナルな世界ですね。
リンゴの表面が「赤い」ということ、空が「青い」という言葉は共有できますが、ある人に「り
んごがどのように見えているか」ということは、私には分からないのです。私に分かるのは、視覚
でいえば「ワタシにそのように見えている」ということだけです。
たとえば、共感覚という言葉があります。色彩を見ていると音が聞こえてきたり、音を聞くと
色彩が見えるそうですが、共感覚の成人の著書に「ほかの人も同じだと思っていた」とありました。
私たちが「どこかで孤独を感じているのは」そのような起源が有るのかもしれません。クオリア
そのものは共有できない。私たちが共有しているのは言葉のようです。